タイムクエイク (ハヤカワ文庫SF)
この商品を買った人はこんな商品も買っています
青ひげ (ハヤカワ文庫SF)
ジェイルバード (ハヤカワ文庫 SF (630))
デッドアイ・ディック (ハヤカワ文庫SF)
スラップスティック―または、もう孤独じゃない (ハヤカワ文庫 SF 528)
死よりも悪い運命 (ハヤカワ文庫SF)
カスタマレビュー
そろそろ一周忌だ。 ( 2008-04-24 )
私が、ヴォネガットのこの作品を読んだのが98年の秋だった
と思う。75歳を過ぎて、益々、意気盛んな爺さんであり、
当時、ヨーロッパの作家では、第二次大戦を従軍と言う形で
経験した世代の者は、多くが世を去っていた。
まだ、21世紀型の戦争が始まる以前、90年代の新しいタイプの
好景気を髣髴とさせる日常的エピソードが、キルゴア・トラウトの
短編SFや、タイムクェイク現象の間に挿入されている。若しかしたら、
本当に、タイムクェイク的な繰り返しが起きた方が、人類の
為には、良かったのかも知れない。余りにも、学ばなさ過ぎるのだ。
この自称「知的生物」達は。従って「歴史は、それ自体が
勝手に、繰り返す」。
昨今の、ビジネス用語で、「コミュニケーション・スキル」やら
「コミュニケーション能力」等と、喧しく言われるが、
ヴォネガット自身が、一緒に郵便局の窓口に並んでいる人達の
仕事や興味関心事等、様々な事を知る場面が有るが、一体どうやって
と言うと「対話」と言う失われた「古代の技術」を
使って、と言う行がある。ネット社会での喧嘩の
馬鹿馬鹿しさも、さりなん、現実の戦争・戦闘も、途中で
「馬鹿馬鹿しさ」にヒトが、突然、気付いてしまったら...。
NNTaleb's FBR 『まぐれ』では、人間の脳の扁桃体の
働きが「正常」ならば、ある程度長く遣ってきた事は
「愛着」を持ってしまうので、途中で放り出せなくなるとの事。
「経路依存」と言うそうだ。途中で次から次へと
放り出して行く事が出来るのは「頭がおかしい」のだそうである。
十万年近く、同じ様な事を続けて来た人類は
「辞めてしまう」事が出来るだろうか。
グランドフィナーレ! ( 2008-01-12 )
最後に執筆された小説。
ヴォネガットのこれまでの小説たちの総括のような作品で、
この本から読むと、おそらく意味がわからないのではないだろうか。
ヴォネガットが、あらゆる場所で訴え続けてきたことが書かれている。
デジャ・ブのように、その記述は現れて、軽やかに去ってゆく。
あれ?これどこかで読まなかったでしょうか、その他いろいろ。
新しいテクノロジーへの警鐘は「プレイヤー・ピアノ」を思い起こさせ、
拡大家族の必要性は「スラップスティック」や「死よりも悪い運命」の復活のようだ。
オヘアの思い出は「スローターハウス5」とともに。
そしてなにより、ずっと孤独だったキルゴア・トラウトが
最後の最後で独りぼっちでなくなった!
作者の優しさを感じずにはいられない。
亡くなった人々への回想は甘く優しく、ともに生きている人には厳しい気がした。
先妻ジェインとの関係が悪いままでなくて本当によかった。
「ヴォネガット、大いに語る」や「さよならハッピー・バースデー」のときの
ヴォネガットは本当につらそうだったから。
それにしても、これはやっぱり最後の本なんだなぁと思った。
グランドフィナーレもあったし。
あんたは病気だったが、もう元気になって、これからやる仕事がある。
なんという心強い言葉! アウフ・ヴィーターゼーン。
ヴォネガット ( 2006-09-14 )
本人が言うには、これが最後の作品。
その内容はたぶんにエッセイが混じった散文的内容で、あまりに荒唐無稽でごちゃごちゃしたシチューのようだ、とプロローグの説明がぴったり。
この作品じたいがいままで書いてきた作品のエピローグという位置づけであると本人が言うので、これを最初に読むのは得策ではないだろう。
アメリカ文学史にも、村上春樹にも、アーヴィングにも決定的な影響を与えたヴォネガットの新作というものがもう読めなくなるのは、残念だ。
おもしろうて やがて ( 2005-08-27 )
カート・ヴォネガット!なんと懐かしい名前でしょう。なんといっても「ボコノン教@猫のゆりかご」の荒唐無稽さが一番です。もっと有名なのは「タイタンの幼女」かもしれませんが。でも、今になってなぜヴォネガット・・・。
この作品の粗筋を語ることはほとんど無意味です。中心人物は作者自身と彼が作り出した架空の作家、キルゴア・トラウトです。63章に分かれた文章は、ほとんど脈絡もない思い出話と警句に満ちていて、きわめてシニカルです。ただ、その文脈からこぼれでる理想主義や正義感・宗教心のかけらが心に残ります。勿論そういう読みが正しいかどうかなんては、作者の意図するところではないでしょう。どうぞご自由にとばかりに、アイディアや薀蓄を披露するだけして、さっさと立ち去るったとでもいえばいいでしょうか。日本人の私には、原爆についての言及が嬉しかった気がします。原爆をアメリカの民主主義の陥った最悪の事例として捉えているのだから。
シェイクスピアやリンカーンへの造詣に混じって羅列される、ヴォネガット一族の履歴は、どこまでが本当なのかよく分かりませんが、一族に関する執拗なまでの記述もこの作品の大きな部分です。決して読みやすくはなかったけれど、これが彼の最後の小説という前書きを信ずるなら、一読に値すると思いました。
どこまでも愛しい日常への招待。 ( 2005-06-28 )
この作品は、
あとがきで紹介されているヴォネガットの言葉にあるように、
長い長い一つの物語の終章である。
よってこの本単独の評価をすることはできない。
ヴォネガットはこれまで、延々と一つのテーマに沿って物語を書いてきた。
運命の残酷さや社会に対する深い絶望と、
そのなかで一人の人間がどう生きることができるのかという問題。
ヴォネガットはそれを様々なドラマを通じて描いてきた。
一人でも多くの人の心に彼の声が響くことを信じて、
ただひたすらに信じて書くことにしか彼にはできなかった。
魂のメッセージ。
彼は、そんなやさしさをあらゆる形でカモフラージュしてきた。(不器用にも)
それによって彼は「サタイア」、「ブラックユーモア」として確固たる評価を作り上げた。(皮肉にも。)
しかしその彼がとうとうこの作品において生の声を発した。
ストレートでひどく弱弱しく、子どもっぽい、しかし涙が出るほど美しい言葉たち。
飾らない、しかしそこから目をそむけることを許さない純粋なメッセージ。彼は本気である。
気恥ずかしくなるような言葉を、真剣に発している。
もう自分には「物知り顔」で物事を達観することなどできそうにない。
ヴォネガットを皮肉屋と考える人たちはこの本にいささか失望するかもしれない。
しかし敢えて言う。彼は本気だ。はじめっから、本気だ。
彼は自由意志を否定しているのではないし、人生がつまらないものだとも思っていない。
人生は、ほとんどの人にとって、あきらめるには愛しすぎるものだ。
誰もがどこかに愛された形跡をもっていて、
同じように誰もが自分の人生を愛した痕跡を持っている。それを認めよう。認めよう。
自由意志なんてものはないかもしれないが、
それでも人は「自分の人生の舵を自分が取っている」と信じることしかできない。
そうして人生を真剣に生き抜くことこそが神聖なのだ。
(『スラップスティック』参照)
ヴォネガットをはじめて読むのなら、
『タイタンの幼女』や『猫のゆりかご』あたりが入りやすいと思う。
でも、「この人はどこまでふざけててどこから本気なんだ?」と思ったら是非この本を読んで欲しい。
彼は、本気だ。
